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森の 「日本語」 論

森有正の 「日本語・日本人」 論の二回目として、森の日本語分析を紹介します。引用部分が長くて読みにくく、退屈されるかも知れませんが、どうぞお付き合いください。


森の 「日本語」 論
(森有正の 「日本語・日本人」 論 第二回)


  今回から森の言説を紹介しつつ、私なりの理解を加えていきたい。まずは森の日本語論から入るのが分かりがいいと思う。


  日本語は非文法的言語である

  森は在仏の日本語教師として、ヨーロッパ語と根本的に構造の異なる日本語をフランス人にどう教えて良いやら分からない苦労をさまざま経験する。森によれば、日本語は千変万化のバリエーションを持つがゆえに、そこから簡明な規則 (文法) を抽出しにくい、よって文法を学ぶだけでは自然な日本語を書くことが難しい、という意味で 「非文法的言語」 である。逆に言えば、ヨーロッパ言語、とくにフランス語は、文法規則から演繹的に、実用に耐える文章を構成できる言語なのだという。喩えて言えば 「数学の演算」 みたいに規則に基づいて文章を作れる言語という感じか。

  そうした日本語の非文法的性格、教えにくさの表れとして、森は (1) 助動詞の問題、(2) 敬語の問題、(3) 助詞の問題を挙げている。そして、それらの一つ一つが次回説明する日本人独特の 「汝−汝」 関係、「二項関係」 づくりを日本人に促す作用を持っているとする。

  助動詞の問題

  森有正は、助動詞の作用に着眼して以下のように述べている。(なお、以下の引用文に現れる 《  》 は、分かり易くするために、私が勝手に付け足したものである (以下、今後の連載において同じ))。

  …助動詞は陳述全体に話し手のその陳述に対する主観的限定を加えるもので、本質的に 《「わたし」 の判断という意味で》 一人称的である。例えば 「これは本です」 と言えば、意味から言えば、「これは本である」 、「これは本だ」 と全然同じであるが、この二者に比較してより丁寧に言うという態度を示している 《つまり、判断だけではなく、話者の話す態度も規定している》。もっと丁寧になると 「これは本でございます」 という風になる。

  《これらは、》 「これは本〔である〕」 という内容とは次元のちがう別のものかというと、そうではなく、この場合、この助動詞は 《 「これ」 と 「本」 という》 両者の関係を示すと共に、話の内容を肯定し、断定し、確言するという意味合を含んでいる。

  しかし、この意味合いは、話し手が独立に賦与するものではなく、あくまで話し相手を意識の中に置き、それとの共在の上で下す意味合いなのである。であるから、「AはBだ」 ということが、《話者と相手の目上/目下といった関係、或いは場の状態に応じて》 「AはBである」 「AはBです」、「AはBでございます」、「AはBでございましょう」、「AはBでございましょうか」、などという色々の形をとることになる。この最後のものは、疑問文の形をしているが、本当の疑問文ではなく、相手にも判断の余地をのこすという意味で丁寧な言い方なのである。

  そういうわけであるから、日本語においては、一人称が真に一人称として、独立に 《= 「誰を相手に話すのか」 といった周辺環境に左右されずに》 発言することが、不可能ではないとしても極度に困難である。
( 「出発点 日本人とその経験 (b)」 「経験と思想」 所収)

  ここでは助動詞による言い回しに多様なバリエーションがあるということ、それが話し相手との関係や場の状況に応じて使い分けられるという事実を確認して先に進もう。

  敬語の問題

  フランス人に日本語を教える苦労が 「とくに著しかった」 と森が言うのは敬語の問題である。素人でもそうだろうなと頷ける。
  日本語の敬語が複雑極りないことは周知の事実である。しかも、日本人である以上、原則として敬語法を決して間違えないことも亦 (また)事実である。敬語法こそは、《日本人の》 社会構成そのものを内容としているのである。だからその社会の中に生きていることと敬語法を駆使するのとは全く同じことなのである。我々には敬語法を無視して話す方がずっと意識的努力を要する。

  その情動的であることにおいて本質的に日本的である社会構造は、直接に敬語の中に流入し (あるいは敬語において日本語の中に嵌入し、と言っても同じである)、それによってこの共同体 《=日本の社会》 の人間関係を言葉の中に忠実に実現しているのである。

  敬語はいくつかの観点から扱うことが出来る。語彙 (接頭語、接尾語による語形の変化をも含む)、動詞における敬譲のアスペクト、敬譲の助動詞の使用。そして大切なことは敬意がどこに向けられているか、直接相手に対してか、自己の謙譲を通して間接に相手へか、第三者へか、それも直接か、あるいはある他の者 (相手、自己あるいは他の第三者) への敬意の度合を媒介として間接的にか、あるいは、そのいずれでもなく、ある語によって表わされている当体 《=客体》 に関してか。

  それは現実が複雑なだけそれだけ複雑になるようにみえるが、その現実の中に生きている者にとってはそれだけ自然で、簡単でやさしいのである。
( 「出発点 日本人とその経験 (b)」)

  敬語の持つ 「丁寧」、「尊敬」 といった作用は、程度の差こそあれ日本語以外の言語にも備わっていると思う。しかし、日本語にはもう一つ 「謙譲・へりくだり」 という作用がある。これこそが独特ではないか。

  森がそう言っている訳ではないが、ここで韓国語のことを思い出す。韓国語と日本語は言語構造が似ており、日韓両国民は互いの言葉を覚えるのが早い。(昔の陸軍大学ではヨーロッパ言語の履修に3年をかけたのに、韓国語課程だけは1年だったと聞いた。軽視した訳ではない、1年で足りたのである。)

  韓国も礼儀作法、敬語にやかましい国だ。背広を着る今日でも、握手をするときは左手で (見えない) 長衣の右袖を押さえる (笑)。しかし、日本語習得が速い韓国人でさえ、「謙譲」 は往々にして使いこなせない (他者との会話で、自分の親に言及するときに敬語を用いてしまう)。日本と韓国の人間関係がまったくの相似形ではないからだが、実は構造が似ると言われる日韓両国語の間にも相違があるのかもしれない。

  助詞の問題

  森は助詞についても、 「その数は限定されてはいるが、あるいは独立して、あるいは互に組み合せられて、殆ど無限に複雑で予料できない現実のニュアンスを映す作用をもち、またそういう無限の可能性を含みうるものとしてのみ観念されることができる」 と述べている (「出発点 日本人とその経験 (b)」)。例えば 「私は…」 なのか 「私が…」 なのかによって、ニュアンスが大きく変わる。

  たしかに、「非文法的言語」 という性格の一部分は助詞の選択が難しいことに由来しているかも知れない。私が付き合うことの多い中国人たちも 「助詞」 が苦手である。留学どころか滞日歴十年、二十年の中国人でも、日本人はしない助詞の使い方をしてしまう。優秀な彼らにしてそうであるところを見ると、外国人が日本語の助詞の用法から法則性を抽出することはよほど難しいのだろう。

  語順問題 (私の感想)

  以上のような森の解説を読みながら、私は長崎県庁に出向して働いていた昔のことを思い出した。そのとき当地の人たちと話していてよく感じたのは、相手が 「右」 と言っているのか 「左」 と言っているのか、話者の意図が掴みにくい、ということだった。最初は 「東京と九州は、(ハッキリ) 話す習慣において随分と落差がある」 くらいに感じていたが、どうもそれだけではない。

  彼らは 「中央省庁から来た若い課長さん」 という 「応対に困る異物」 を前に当惑していた。そして、この私は、ある問題について 「右」 という意見なのか 「左」 という意見なのかを見定めようとして、ワン・センテンスの途中で語尾を微妙に調整していた 気がする。

  「ワン・センテンスの途中で語尾を調整する」・・・これは意外と本質に触れる問題ではないだろうか。

英語:I don’t agree with your view (こんな 「喧嘩腰」 の言い方は英語圏でも普通はせず、I have a different view とか My view is different とか言うが、それでも日本標準からすれば、じゅうぶん直截な否定だ)

中国語:我賛同ni的看法

日本語:私は貴方の見方には賛成しない

  英語や中国語では、主語の後ろに直ちに、そして目的語の前に助動詞が入るから、口を開くなり直ちに、否定か肯定かの態度表明を迫られる。目的語をまだ示していないのに、延々とニュアンス付けのために副詞的表現を挿入していたら、聞く方は 「何を話したいのか」 と焦れてしまうだろう。これに対して、日本語は叙述の核心を司る助動詞や助詞が文章の後ろに来る、目的語は既にその前に示してあるので、後のバリエーションが付けやすい。

  日本語に千変万化のバリエーションがある根本的な原因は、助動詞や助詞が構文上文章の後ろに来る日本語の語順構造に由来するのではないだろうか。森はそこまで明示的に 「語順」 問題を指摘している訳ではないが、私には 「根底には語順という構文構造があり、その上に助動詞や助詞が相手との関係や場の状況に応じてさまざまなニュアンスを加える仕組みになっている」 という絵解きが説得的に思える。

  さらに言えば、「文章の後ろの方という場所を与えられたおかげで、助動詞や助詞が豊かに発達したのだ」 と考えることもできるのではないか。そこから派生して、複雑・精緻な 「敬語」 表現が発達したのも、相手との関係に応じてニュアンスを加味しやすい語順になっており、かつ道具立て (助動詞や助詞) が揃っている日本語の仕組みがあったからではないか。

  森は 「日本の社会構造が、直接に敬語の中に流入し、それによって、この共同体《日本の社会》の人間関係を忠実に表現できる」 と言ったが (上掲)、さらに言えば、「こういう場面では 『丁寧に言う』 或いは 『へりくだる』」 といった 「人間関係」 のあり方は、何処か他の場所に決まりが書いてある訳ではない。日本人は幼少からそういう日本語を学ぶことによって 「人間関係」 のあり方を学ぶ。つまり 「この共同体の人間関係」 は日本語によってかたち作られ、こんにちまで伝えられてきた側面があるとも言えるのではないか。

  以上のように考えると、日本語が日本人を規定する影響の大きさは、なかなか深遠なものがありそうだ。
(平成23年9月24日 記)





 

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