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ブログ 津上俊哉
大海洋国家、中国

最近放映されたNHK特番を見て感心しました。「国営放送」と揶揄され、最近は不祥事で叩かれてばかりのNHKですが、こういう番組を流すところはさすがですね。


                        大海洋国家、中国


  5月3日夜のNHK総合テレビで、明代中国の航海家、鄭和に関する特番が放映された( 「偉大なる旅人・鄭和」 (第1部 「運命の航海」、第2部 「見果てぬ夢」 )。小サイトでは、これまで鄭和のことに触れる記事を2回掲載したことがあるが(末尾参照)、この番組では、これまで私が知らなかった事実がたくさんあり、また、いろいろ考えさせられることがあった。

  まず、鄭和の大航海は壮大な事業が好きな明の成祖永楽帝の指示と支援によるものだったとは聞いていたが、これほど大がかりなものとは知らなかった。なにせ、明国の国家財政が傾くほど莫大な予算が投じられ、排水量1,100tを超える木造巨大艦( 「宝船」 )を母船として200隻以上の大艦隊、 2万人以上の乗組員が参加し、回数も7次、しかもアフリカにまではっきりとした足跡を遺すものだったというのだ(注)。
  驚きの事実はまだある。最近 「イチ押し」 で紹介した王義桅教授の 「韓国との交流は実力より謙虚さが重要」 にもこの鄭和の大航海が登場するが、文中 「・・・最近はとうとう 『アメリカ大陸を発見したのは鄭和だ』 との新たな証拠まで飛び出してきた」 とあるのを読んで、私もニヤニヤしてしまった。
  しかし、実は 「新たな証拠」 は最近ベネチアに残る古地図の上で発見されたもので、ヨーロッパでセンセーションを呼んだという。番組にもイタリアの研究者が登場して、「・・・喜望峰の先を廻ってインド洋に行けることをヨーロッパに報せたのは中国船の航海であり、この50年後にバスコ・ダ・ガマがそれを追確認したのではないか」 と語るのだ。 「鄭和艦隊がアメリカ大陸を発見した」 というのは、この発見の上に、イギリスの歴史愛好家が展開する推理だった。

  この番組を通じて、 中国が 「海洋国家」 という別の顔も持つことについても認識を新たにした。以下の二つは番組で紹介されたエピソードだ。
  約600年前、鄭和艦隊に属したと見られる中国船がアフリカ沿岸で難破した (いまも海に潜れば、数多くの中国陶磁器が沈んでいるという)。乗組員の一部は陸地へ辿り着いて定住し、いまもその末裔が当地に暮らしているという。数年前、鄭和の大航海600周年を前に、当地の中国大使館が末裔と見られる一家族を訪問した。DNA鑑定の結果、果たして一家は中国人の血を引くことが証明され、一家の娘はいま、中国政府の計らいで南京に留学して医学を学んでいるというのだ。
  石油価格の高騰を追い風にして建設ラッシュに沸く中東ドバイの様子も紹介された。例によって中国商人が大挙進出しており、 「ドラゴンマート」 という商業施設には衣類、雑貨からオートバイまで中国商品を売りまくる中国人の店舗が並んでいる。きっと、「市場があればどこにでも出かける」 (浙江省の) 温州商人あたりであろう。
  そこまではよくある光景だ。しかし、彼らを 「ニューカマー」 だと決めつけることはできない。ドバイに最近建設された大ショッピングモールにはインドと並んで、中国文物の代表として鄭和の艦隊船が展示されているからだ。中国商人は600年の時間を経て当地に 「カムバック」 したのだ。

  それらのエピソードから浮かび上がってくるのは、ようやく世界の表舞台に戻ってきた中国の、栄華の原型のスケールの大きさだ。北京で暮らしていた頃、街中に中東やアフリカの人間がけっこう多いことに驚くことがあった。当時は共産中国が戦後に展開した 「第三世界外交」 の名残だ、くらいに考えていたが、この番組を見て考えを改めた。中国はインド洋沿岸のあちこちと数百年遡れる交流の歴史を共有している。鄭和がやったのが 「朝貢」 外交だったにせよ、少なくともヨーロッパの植民地主義のように手が血で汚れた歴史ではない。
  また、以前本欄で紹介したように、元代の中国は鄭和に先立って、中東まで股にかけた海上交易ルートを先行建設していた。ユーラシア草原でソグド人 (イラン人) をはじめ多くの配下を認め、従えたが、彼らとの交易は海上ルートでも展開したのだ。
  鄭和艦隊の重要な基地は、いまの福建省 長樂だったという。今日でも世界を股にかけた密航・不法滞在ネットワークで有名な場所だ。明朝は永楽帝の没後鎖国政策を採ったが、北京の中央官僚の政策は南方までは及ばなかっただろう。清朝 (江戸) 時代にもこの地域と長崎出島は通商でつながっていたし、各地の華僑の存在は言うに及ばず。恐らく東南アジアを中継地としたネットワークは脈々と維持されてきたのだと思う。

  日本では中国を 「大陸国家」 と定義し、翻って日本のアイデンティティを 「海洋国家」 に求める考え方に人気がある。しかし、広くて多様な中国には我々の知らない素顔がまだたくさん隠れている。過去たかだか100?200年だけ、北方の中央権力だけの中国を見て 「大陸国家」 と決めつけ、「海洋は我が日本の領分」 などと一人合点しているのは危うい。
  少なくとも、昨今のように近隣アジアと角を突き合わせ、自閉や内向きの気分に浸りがちな日本では、絶海の孤島の 「海洋国家」 に終わってしまう。もっと大局的、歴史的、鳥瞰的に世界を見る視点を育て、周辺ともっと友人になるための交際の努力を続けていかないと、「海洋国家」 競争でも中国の後塵を拝することは避けられないと思い知った番組だった。

                          注 兼 追記

  鄭和艦隊の船は、幼稚だが大砲を積んでいたし、少なくとも数千人単位の兵士が乗り組んでいた (セイロン島では、当地の宗教対立に巻き込まれて攻撃を受けるが、2,000名の陸戦隊を繰り出して反撃、襲ってきた勢力の王宮を逆に占領したそうだ )。また、訪問する先々で、外交使節を北京に送るように求めている。
  そこから分かることは、鄭和艦隊は明朝への 「朝貢」 を求める軍事的派遣の色彩を濃厚に帯びていたということだ。「訪問」 された各地にしてみれば、ある日突然、海上に見たこともない200隻の大艦隊が出現する・・・日本が遭遇したペリーの 「黒船騒動」 にも似た騒ぎであったはずだ。

  そう書くと、反中人士は 「そら見ろ!」 と言うだろう。私もそこに 「大中華」 の意識を読み取る一人ではある。ただ、誤解を恐れずに誤解を正すと、この 「朝貢」 は求められる側にとっても必ずしも悪い話ばかりではなかった。美麗な中国陶器など財物の贈呈を受け、しかも 「アゴアシ」 付きの北京招待旅行まで付いている。だからこそ、鄭和は各地で歓待され、今日なお各地で覚え目出度く記憶されているのだ。日本でも、足利義満などはその 「実益」 に惹き付けられたからこそ、「御朱印船」 を出したのだろう。
  そう、朝貢は 「旦那の酔狂」 みたいな色彩を多分に帯びていた、とくに遠隔の地については。金のかかり方も尋常でない、だから歴代王朝はその勢力の絶頂期のいっときだけしか、朝貢を求めることができなかったのだ。

  昨今の日本、反中言辞はとうとう 「日本併合」 説が飛び出すところまで来た。しかし、論者が疑い、不安がる中国の 「伝統」 に従うならば、「朝貢→併合」 という論理にはとんでもない飛躍があるし、いまの中国はまだまだ 「旦那の酔狂」 をやれるほど豊かではない。                  (平成18年5月4日記)

参照
過去2回の鄭和関連記事
「遊牧民から見た世界史」 (著者:杉山正明 京大教授)を読んで(後)
王義桅 「韓国との交流は実力より謙虚さが重要」




 

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