最近、中国で村上春樹の小説がよく読まれていることや、中国の若者が日本のポピュラー文化が好きで、日本の若者のライフスタイルに憧れていることなどは、日本でも強調され、よく知られるようになりました。日本と中国の政治関係がこじれればこじれるほど、文化交流に対する期待もますます膨らんできます。その気持ちはよく分かります。しかし、私が不思議に思っているのは、日本の小説や漫画、テレビドラマ、アニメなどが中国で人気を集めたのは、別に村上春樹や「ドラえもん」から始まったわけではない、ということです。いわゆる「愛国主義教育」のなかで育った70年代生まれの私の世代も、日本の映画やアニメ、テレビドラマに親しんできました。実際、文学や映画の話題になると、私は、同世代の日本の友達とのあいだに、時には一種の世代ギャップさえ感じてしまうのです。
つまり、互いの文化に触れる機会が多ければ多いほど、相手の現実を知り、互いの理解が深まって、日中関係も改善されるだろうという考え方は、ややナイーブすぎるように思われます。中国の若者たちの日本に対する認識や感情がいかに作り出されているのか、どのように変化しているのか、この問題は非常に複雑で、様々な力が交差するダイナミズムの中で分析しなければなりません。固定した枠組みや直観に基づいた体制批判、あるいは純粋な文化交流に対する素朴な期待では、問題の核心に迫ることができないはずです。重要なのは、これほどたくさんの文化交流が行われてきて、日本や中国についての情報にアクセスするチャンスやルートもどんどん増えている状況の中で、にもかかわらず、互いに対する偏見に満ちた認識と不信感がいまだに払拭されていないのは、はたしてなぜなのかということです。
一九六九年、桑原武夫さんや小田実さん、菊地昌典さんなどが戦後の世界をめぐるシンポジウムにおいて、文化大革命の真最中にある中国について議論を交わしました。そのとき、話題に上ったのは、党内の権力闘争、体制批判の不自由さ、ナショナリズム、所得格差、中華思想、情報封鎖、民衆の日本に対する無知、といったことでした。ここで、今日の中国を考える枠組みは、文化大革命時期の中国を考える枠組みとほとんど変わらないことがよく分かります。いま日本でも、中国のメディア事情に対する関心が高まっていますが、しかしメディアについて議論の話題がたくさんあるにもかかわらず、中国のメディアとなると、なぜかどうしても焦点が報道規制と言論自由だけになってしまうのです。果たして変わっていないのは、中国なのか、それとも「中国」を見る視点、「中国」を考える枠組みなのでしょうか。
2004年サッカーアジアカップの決勝戦の前夜、あるテレビ局の記者が北京から中継でリポートをしました。彼の最初の言葉はこうでした、「決勝戦前夜の北京は、意外にも静かです」。この「意外」という言葉から、彼が何を想定して北京の町に飛び出したのか、そしてその想定は彼の見た風景をいかに制限しているのかは、あきらかです。つまり、現実を知ることは実に難しいことです。たいていの場合、ある新しい出来事に直面したとき、われわれは、混乱や迷いのなかで、矛盾を抱えながらその出来事をじっくり吟味するのではなく、むしろ陳腐な枠組みをもちだして、その出来事を性急に解釈して、片付けてしまったのではないかと思います。だから、重要なのは、これまで文化交流を通して、我々は相手のどんな現実を知ったのか、を問うのではなく、われわれが知っていると思い込んでいるのは何か、を問うことではないでしょうか。
周知のように、1950、60年代において、中国と日本との間で行われた民間文化交流は、中国の国民外交の一環として機能し、その背後に日中国交正常化を推進するという政治的目的が常に控えていました。様々な交流活動の中で繰り返し強調されていたのは、中国と日本との2000年余に亙る友好の歴史でした。つまり、日中関係の歴史は「2000年余の友好的な文化交流の歴史」と日清戦争以来の「60年間の暗い歴史」という、二つの部分に分けて認識されていました。このような歴史認識は、侵略戦争の加害者である極少数の軍国主義者と被害者である大多数の日本国民を峻別して、「敵」である軍国主義者に対しては警戒し、「友」である日本の国民に対しては連帯と友好を強調する、という中国政府の戦争責任に対する一貫した態度とも呼応しているのです。つまり、批判と交流、不幸な歴史と友好の歴史、戦争の加害者としての軍国主義者と被害者としての日本国民、日本政府と日本人、敵と友などなど、こうした二項対立は、一種の紋切り型の日本認識の基調となって、今日なお根強く存在していると言えます。
1997年の日中共同世論調査の中で、日本人あるいは中国人と言えばまず誰を思い浮かぶか、という質問がありました。その回答は実に興味深いです。日本側の回答では、中国大陸に限って見ますと、戦後以降は文化の面は全く欠落しています。一方、中国側の回答では、戦犯と、総理大臣と、芸能人とは見事に入り混じっています。東条英機と山口百恵の名前が、一位と二位に並んでいるという図式は、白と黒がはっきり分かれている日本認識の構造を端的に示しているといえます。つまり、日本政府の歴史認識に対する批判と、日本国民との友好的な文化交流とは、一つの装置の両輪として協働し、人々の日本に対する認識や態度、感情に大きく影響しているように思われます。もし過激的な「反日」行動を感情的だと批判するのならば、「日本政府は日本政府、日本人は日本人」、「政治は政治、文化は文化」といった、いわゆる理性的な態度も、こうした二項対立的な日本認識の構造から一歩も出ていないのです。
もっとも、ここで、50,60年代における日中文化交流の政治的側面を指摘することは、直ちに当時の文化交流そのものを全部否定するということではありません。国の政策から短絡的な因果関係で現実を推論することは、たとえ全体主義国家でも妥当ではないと思います。実際、50,60年代の日中文化交流にかかわった人々の間に、一種の応答の関係が成立していたのです。つまり、当時、「日本軍国主義者に罪があり、日本国民に罪はない」という中国政府の解釈は、「虚構の論理」あるいは「政治戦略」と見られているのではなく、むしろ一種の配慮、努力とみなされていたのです。だから、「過去のことは水に流そう」という中国側の人々と、「いや、忘れるわけにはいかない」という日本側の人々は、互いにできるだけ相手の配慮と努力に応えようと行動し、他者の認識と態度を、自分自身の認識と態度を決める一つの前提としていたのです。
文化交流の根本的な課題は、他者との関係をいかに構築するかということだと思います。しかし、今日では、われわれ固有の文化とか、われわれ国民の感情とか、わたし個人の信念、心の問題といったものばかりが強調され、他者との関係のなかで物事を判断し、態度を決めるという姿勢は見られなくなっているのです。一国でおきうる問題がすべての国でおきうるという時代の中で、中華思想とか、軍国主義の復活とかいって、あたかも風土病や遺伝病のように、一つの社会のみで繰り返しおきる問題として扱おうとする動きがむしろ目立っているのではないでしょうか。
50、60年代の日中文化交流は、それにかかわった日本側の人々にとってまた別の意味合いがありました。中島健蔵氏がいったように、国交正常化するまで、日本で日中友好運動にたずさわることは、政権が保守党に握られている以上、自動的に日本政府の政策にさからい、権力批判、体制批判の意味を持っていたのです。しかし、国交正常化によって、日中友好運動は、少数者の挑発としての闘いから、一転して国是への協調・協力に変わることとなりました。「文化」という言葉は実に不思議な言葉です。これほど歴史的、政治的な言葉がないにもかかわらず、しばしば、あたかも超歴史的な、まったく政治と無縁な言葉のように語られてしまいます。「文化に政治を持ち込むな」、あるいは「政治は政治、文化は文化」といった言葉は、文化のイデオロギー性を隠蔽しているばかりではなく、今日の文化交流は、すでに政治の邪魔にならないように骨抜きされている、ということをも示しているのではないでしょうか。
フロイトが1909年にアメリカのニューヨーク港に到着した時、歓迎する人々に驚いて、隣のユングにこう言いました。「彼らはわれわれがペストを持ってきたことを知らないのだ」と。文化交流も、ある意味でペストを持ち込むようなことだと思います。異文化との出会いは、驚きや昂奮、喜びだけをもたらすのではなく、本来は、不安や不快をも強いるはずです。大衆文化を通じてのアジアにおける文化交流の問題点は、まさに、友好的な雰囲気を壊すものが排除されたこと、毒が抜かれたということにあると思います。
そもそも、今日、日本でも中国でも、過去の文化的素材が、かつてもっていた批判性や歴史性が切り取られ、消費者に娯楽と癒しを提供する商品に作り変えられています。日本では、「白い巨塔」や「人間の証明」や「氷壁」、松本清張の小説など、60,70年代のドラマや文学が次々とリメイクされています。一方、中国では、デュラスも、張愛玲も、村上春樹も、ボルヘス、王家衛の映画も、タルコフスキーもみんな同じレベルで語られています。90年代末の中国の若者たちは、80年代末の日本の若者と同じように、村上春樹の『ノルウェーの森』のムードに癒されています。若者達が求めているのは、心地良い雰囲気と快感です。そして、大衆文化はそれに満足する商品を提供しています。ここで、現実から感情へ、感情から思考へという回路の作動様式が根本的に転倒しているのです。つまり、他者との出会いを通して、新しい経験から喜びや苦痛、混乱、葛藤といった複雑な感情が生まれるのではなく、心地よい雰囲気や、耽溺したい気分に合わせて、現実が遡及的に作り出されていくのです。
孫歌さんは『アジアを語ることのジレンマ―知の共同空間を求めて―』(岩波書店、二〇〇二・六)という著書のなかでこう書いています。「世代の交代によって、戦後の中国人の日本感覚は、「怨恨」から「無知」へ転じつつあり、その中間状態としての「無知に基づいた怨恨」、あるいはそれと表裏した「無知に基づいた賛美」という状況が、今日において、中国社会の日本認識の基調をなしている」と。無知にもかかわらず、怨恨や賛美といった感情が芽生えるのは、まさに感情が現実に先行しているからです。中国社会科学院の董炳月さんは、いわゆる「反日」デモを、愛国主義ではなく、娯楽だと言っています。ここでも、しっかりとした信念や理由があったのではなく、なんとなく面白いとなんとなく面白くないという感情が先にあって、それが思考の回路を通さずに、行動に出たのではないでしょうか。
つまり、いま、現実から感情へ、感情から思考へ、思考から新たな現実へという回路を辿って現実が構築されるのではなく、感情から現実へ、という短絡的な、逆転した回路を辿っているのです。しかも、思考というプロセスがすっぽり抜け落ちているのです。そもそも思考の起源は不快にあります。赤ちゃんが母親の不在という不快な状況に直面する時、いかにそれに対処するか、思考が始まるのです。しかし、いま、「思考停止」どころか、「思考拒否」とでもいえるような現象が起きています。私は時々中国の中学校や小学校へ行って授業をする機会があります。学生たちに「どう思う?」と聞いたら、ドミノ倒しのように「分からない」という答えが返ってくることもしばしばあります。しかし、「分からない」とは、たった一つの正解を求める質問に対する答えであって、「どう思う?」という質問の答えにはなりません。私はこの言葉を、考えること自体への拒否と、受け止めざるを得ないのです。思考の回路が閉じられると、不安や不快を解消するには、それを引き起こす原因とされる異質な他者を探し出して、取り除くしかありません。感情が容易に暴力的な行為に転換してしまいます。2003年に西安の西北大学の文化祭で起きた日本人留学生の寸劇事件は、まさに、異文化交流の中で生まれる不快にいかに対処するか、という問題を提起しています。
つまり、互いの友好関係を確認し、毒の抜かれた祝祭のような文化交流では、他者と世界を共有し、イデオロギーに抵抗できるほどの絆を結ぶことはできません。逆に、大衆文化商品の蔓延は、不快や不安に耐える能力の低下、思考の回避、他者の排除といった結果をもたらす一因になりかねないと思います。
そもそも、文化交流を通して、相手の現実を理解し、相手についての正しい知識を身につけるという考えは、文化交流に対する最大の誤解かもしれません。実際、いくら否定されても、外部の人は、内部の人がまったく実感も伴わないし、リアリティもないことを本気で信じることはしばしばあります。しかも、内部の人に指をさしてあなたのほうこそ盲目だというのです。だから、スラヴォイ・ジジェクがユダヤ人差別について指摘したように、「中国人」あるいは「日本人」への偏見に対しても、「いや、ほんとうはそうじゃないんだ」と答えるのではなく、「中国人や日本人に対する偏見は実際の中国人や日本人とはなんの関係もないんだ」と言うべきです。なぜならば、イデオロギー的な他者像は、我々自身の内部の亀裂を隠蔽し、われわれ自身のイデオロギーの破綻を繕うために作り出した幻想にすぎないからです。したがって、文化交流で見つめなければならないのは、他者ではなく、自分自身です。他者を見る自らの視点のゆがみ、他者を感じる自らの感覚の鈍さ、他者を考える自らの枠組みの貧弱さ、を気づかせてくれる契機が、文化交流ではないでしょうか。また、他者とのぶつかりの中で生じる不快や不安そのものへの思考を促し、自閉的な、充足した自己認識から抜け出す方法でもあると思います。
したがって、もし文化交流が若者たちの他者に対する認識と感情の形成に影響を与え、相互理解を深めることができるのならば、それは文化交流が「正しい」他者像を伝達する媒介として機能するからではないはずです。むしろ〈誤読〉と〈誤解〉、〈偏見〉の中で生産されたイデオロギー的な他者像にこそ、互いに理解し合う鍵があると思います。無論、自らの〈誤読〉と〈偏見〉から眼をそらさず、「正しい」現実の誘惑から逃れることは難しいでしょう。しかし、それこそわれわれ自身の主観的視点の歪みとわれわれ自身の無意識的な欲望を露呈させ、イデオロギー的な他者像に抵抗する唯一の道ではないでしょうか。
「多元化する日本と中国」)