津上俊哉 現代中国研究家・コンサルタント

津上一目押し

和諧外交と日中関係
2005/06/03
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譚 中

 先頃、日中関係改善を主たる目的として日本を訪れた中国の呉義副首相であるが、日本側指導者の発言が原因で、一方的に小泉首相との会談をキャンセルし、予定より早く日本訪問を終えた。これが日本、中国さらには国際社会において論議を巻き起こす結果となった。その論評は様々で是非は判断し難いが、結果的には中国外交政策の老練さ、成熟性、先見性の度合いについて考える機会を与えてくれた。

 思うに、中国の国際的地位が高まるにつれ、その外交姿勢やレベルも、より高度なものが求められている。中国では現在、社会主義の「和諧社会(調和のとれた社会)」を提唱しており、弁証法的思想に立ってこれまでの「闘争哲学」とは訣別して「和諧哲学」によって、社会の矛盾を解決しようとしている。本稿では、この基本論点を中国外交と日中関係に当てはめてみようと思う。

■「和諧哲学」と「闘争哲学」

 「和諧哲学」と「闘争哲学」とは中国で代々受け継がれてきた処世の二大方針である。「和諧哲学」は儒教が大いに提唱しているもので、政治面では「仁政」と「王道」という言葉で表され、仏教が中国に根付いた後にゆるぎない地位を築いた。一方、「闘争哲学」は、仏教を通じてインドの「自由」、「平等」(「平等王」とはブッダの幼名)の思想が中国の抑圧されていた農民の間に広く伝えられて以降、発展したものである。「弱きを助け、強きを挫く」、「不公平に反対を唱えよ」、「天下を騒がせよ」、「民のために害を除け」、「側近の裏切り者を除け」といった素朴なスローガンで、農民による革命運動を引き起こし、支持、指導してきた。毛沢東時代に最高潮に達した運動である。

 現代外交理論とは、西欧文明において1648年のウエストファリア条約締結後、国際秩序を維持していく中で得られた成果である。毛沢東と周恩来はそれぞれ中国の伝統的な「闘争哲学」と「和諧哲学」という新たな思想をこの理論の中に加えた。

 毛沢東は周恩来の「折衷的」なやり方をあまり快く思ってはいなかったが、周恩来という仲裁者を失うわけにもいかないため、周が中国外交を大胆に展開することを許した。他方、毛沢東の「闘争哲学」も外交理論に大いに取り入れられた。例えば、「敵、味方の区別を明確にせよ」、「理に適った、利益ある、節度を保った」闘争を展開し、「反革命には革命で立ち向かう」「団結−闘争―団結」、さらには、「敵が支持するもの全てに反対する」などである。

 これは、西欧諸国のように外交を「ソフトパワー」と見なし、駆け引きやコストの比較考量といった手法による考え方とは明らかに対照的である。

 中国は社会主義の旗を大きく掲げ、外交においても社会主義の新たな側面を打ち出さなければならない。また、如何なる場面においても、悠久の歴史を有する礼儀の国としての風格を備え、中国の「調和のとれた社会」の構築という壮大な志を外交にも十分に反映させなければならない。それはつまり、中国の外交は崇高な理想に向かって、積極的かつ前向き(roactive)な姿勢を保ち、つまらない事柄にすぐさま反発する(reactive)ような条件反射的な反応(knee jerk)を慎まなければならないということである。

 中国の外交官はいかなる場面でも、中国の国家としての体面と尊厳を備え、「相手の立場に立って物事を考え」、どこへ行っても他国(とりわけ主催国)の国家としての体面と尊厳を保たなければならない。両者は相矛盾するものではなく、人を尊重すればするほど、周りからも尊重されるのである。

 では再び、日中関係に目を向けてみよう。日本はかつて中国を侵略したが、これについても、「悪を以って悪に報い」ている状態にある。戦後60年が過ぎて中国は強大化、日本の軍事力はかつての大蛇のそれから、ムカデのそれへと縮小した。依然、人に噛み付く恐れはあるものの、脅威といえるほどではない。

 筆者は3度日本を訪れたことがあるが、そこで目にした民情とは、中国文明を認め、平和で礼儀正しく、他方、生活の負担が大きいというものだった。というのも、物価が非常に高いため、教職による収入だけでは生活が苦しく、“moonlighting”(余暇にアルバイトをして副収入を得ること)の現象がよく見られる。島国意識が色濃く、大国としての風格には欠け、自制心よりも面子を重んじる。日本は世界で唯一、自殺者の数が自動車事故による死者数を上回る国である。

 さらに述べるべきことは、第二次大戦から今日に至るまで、米軍が依然日本を「占領」していることだ。日本の憲法は米国によって押し付けられたものであり、その外交は基本的に米国にコントロールされている。いわゆる「同盟国」というのも名ばかりのものでしかない。1970年代初頭、ニクソンやキッシンジャーが積極的に中国との関係回復に努めていた時にも、ただ言われるがままに従っていた日本はその真相を全く知らない立場にあった。

 今さらではあるが、この種の「女房」的な役割と、グローバル化の中での日本の優位性や米国経済の債権国としての立場は全く不釣り合いである。現在、日本では米国に対して“NO”と言おうという気運が高まっており、右翼と一般の国民が第二次大戦の歴史について強い態度をとっていることも、このような感情と大いに関係がある。

 中華人民共和国成立以来、毛沢東と周恩来は、日本とインドとの友好を外交政策の最優先課題に据えてきたが、これは非常に先見の明があったといえる。

 50年余りにわたり、中国とインドが歩んできた道は決して平坦なものではなかった。しかし、今では輝かしい道を歩むまでに回復している。中国の対日政策は善隣の精神に基づいており、堂々たる大国としての風格を十分に備え、時には慷慨し、時には忍耐強く進んできたことで、日中関係は今日のような有利な状況にまで発展を遂げた。総じて言えば、日中関係は基本的に順風満帆であり、ここ最近見られる緊張関係も、湯飲みに立つさざなみ程度に過ぎない。

 中国ではこれまでずっと、「徳を以って恨みに報いる」、「恨みを以って恨みに報いる」、「理を以って恨みに報いる」というそれぞれの思想に関する議論が交わされてきた。孔子の言う「理を以って恨みに報いる」は、「徳を以って恨みに報いる」や「恨みを持って恨みに報いる」とは異なるものであるが、具体的な説明はなく、正しい解釈を得る術はない。

 仏教によって、インドの「徳を以って恨みに報いる」という精神が中国に伝えられ、中国社会の調和に貢献してきた。第二次大戦後、ヨーロッパ各国では「徳を以って恨みに報いる」という考え方が実践され、世界の「火薬庫」は平和の源へと変化を遂げた。現在の米国・イスラム間の「聖戦」における「文明の衝突」は「恨みを以って恨みに報いる」という悪循環を引き起こしている。この深い憎しみの淵から抜け出すには、「徳を以って恨みに報いる」という考え方を実践するしかないだろう。

 東半球では中華文明、インド文明という二大文明があるがゆえ、儒教と仏教思想が東アジア各国に深く根付いている。そのため「文明の衝突」が起こったことはなく、さらには第二次大戦後に「東亜穏定弧形地帯(東アジアにおける安定したアーチ型地域)」を形成するに至った。

 かつて1970年代にベルリンの壁崩壊を的確に予言していた米国の未来学者Laurence Taubは、新著『The Spiritual Imperative』において、「ASEAN+3」をもとに、『儒教同盟』(Confucian Union)構想が実現すると再度予言しており、さらには、中国と日本を一本のロープでつながった登山家になぞらえている。

■知識層は大衆に迎合するなかれ

 インドの知識エリート層は、とりわけ東アジアの発展に羨望の眼差しを向けており、東アジアの国々が提唱する「東アジア共同体」(East Asian Community)を「アジア経済共同体」(Asian Economic Community)とし、その名称もJACIK (各アルファベットは、日本、ASEAN、中国、インド、韓国の頭文字)にしたいと望んでいる。

 この夢が早期に実現すれば、東アジア、東南アジア、南アジアという広大な三つの地域がインド神話(また中国の仏教経典)にあるような「金地国」(梵語では“suvarnabhumi”)になるのみならず、現在の不公平な国際秩序を根本から変えることになるだろう。万が一、中国が日本と友好関係を結ぶことができなければ、その望みはなくなり、中国の発展にとっても不利となろう。

 呉義副首相が北京に戻った後、中国の指導部では今回のいささか不愉快な日本訪問について、真摯な検討が行われていることであろう。重要なのは、前を見て、時代と共に歩んで行くことであり、壮大な外交政策を打ち出し、如何なる場所においても、礼を以って人に接し、道理を以って人を説くことである。「背くぐらいなら背かれたほうがよい」という域にまで達することができれば、最も理想的だ。

 中国の知識層は、如何にして中国の外交政策を充実させるかについて提案を行うべきであり、派手に立ち回って民衆の歓心を買い、民族排外主義を助長するようなことは絶対にしてはならない。国際世論は胡錦涛率いる第4世代について、謙虚ではあるが、世論に迎合してしまう恐れなしとしないと見ている。民意は尊重すると同時に、それを導くことも必要だ。さもなければ、民主主義(democracy)はポピュリズム(populism)に成り下がるだろう。

著者はインドで退職後、シカゴに在住している学者である。

(2005年6月3日)