津上俊哉 現代中国研究家・コンサルタント

津上一目押し

「不帰路」の行方
-北京五輪開催、変わり行く中国-
2001/12/31
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葉 千榮

■暑い!熱い!2001年夏の中国

 2001年真夏、うだるような暑さの東京。インターネットで中国・新浪網のHPにアクセスしてみると、目に飛び込んできたのは、さらに暑い中国の光景だった。 

 私の故郷・上海は、何十年ぶりかの大雨と高温に見舞われていた。そして、広い中国の中でもとりわけ暑さが厳しく、「四大火炉」と呼ばれている都市の一つ、重慶では、史上最高の43度を記録したという。 

 それを見て、昔、真夏の重慶を訪れた時のことを思い出した。灼けつくような陽射しの下で、あそこの人々は辛い辛い『紅油水餃』を食べる。紅油は唐辛子がたっぷり入って紅色になった油のことで、辛いというよりはむしろ熱いくらいの激辛油だ。それに浸した水餃子を食べる上半身裸の男達、その背中を流れ落ちる滝のような汗…。

 でも、今年の中国の暑さの中身は今までとはちょっと違うようだ。

 天気だけではなく、このところの中国は色々な意味で熱い。北京オリンピック、WTO加盟、APEC…。熱くなりやすい国に熱い話が殺到し、人々はますます熱くなる。あの北京五輪開催決定の夜、私は人々の熱狂ぶりをテレビで眺めながら、こうやって日本でまるで対岸の火事のように落ち着いてこれを見ている自分は、国民としてまずいんじゃないかと思ったくらいだ。

 しかし、中国でオリンピックが開催されることには、私自身も喜びを感じている。それは、一部の人々が言うような『中国人の誇り』とか、『中国の力を世界が認めた』などということではない。ただ、これで、変化の起こる確実な時間表が見えてきたという感じがするのだ。今日の中国を訪れ、あの国を肌で感じたことがある人なら多少はわかってくれるはずだ。それについてはまたあとでゆっくり触れよう。

 最近、中国では、『不帰路』という言葉が流行っている。たとえば、「中国経済は(あるいは中国マスコミは)、“不帰路”に入った。」というように使う。文字通り、もう後戻りの出来ない道に入ったという意味であるが、今回のオリンピック開催決定により、中国は色々な意味で不帰路に入ったと私は思う。

 そして、その『不帰路』の行き先は果たしてどこなのか?7年先のことを予言するのは難しい、特に中国の場合は。

 10年前、日本にやってきた中国人は、ビジネスマン、留学生問わず、皆、お土産に日本の家電製品を買って帰ったものだ。日本からの便が着くと、空港の出口には、大きなダンボール箱を積み上げたカートが溢れ、それを押す人は、皆の羨ましげな視線を浴びたものだ。しかし、いつの間にかこんな光景はなくなった。先日、日本経済新聞の一面でも報じられた通り、中国はカラーテレビ、ビデオはもちろん、DVDプレーヤーも市場占有率世界一となった。

 私が日本に来た頃、中国都市部の家庭の三種の神器は、冷蔵庫、カラーテレビ、洗濯機だった。それが今では、マイホームとマイカーが一番の目標だ。換われば変わるものだ。そのうえ、今、北京や上海のサラリーマンが購入したマンションは、同じ世代の東京の人たちが買ったものより内装も面積も上回るものが少なくない。このような物質的な生活レベルの変化は、もはやいちいち挙げるまでもないだろう。要するに経済や生活などインフラ面は、以前とは比べられないくらいに変わり、充実したのだ。

 しかし、人々の心はどうなのだろうか?社会全体の価値観や意識はどのような変化を遂げたのだろう?この面に関しては、変わったという人もいれば、変わっていないという人もいる。このあたりは、中国という国の姿の多面性かも知れない。

 中国に古くからある言葉で「盲人摸象」という言葉がある。昔、目の不自由な人たちが集まって、象の姿について話し合った。それぞれが象の鼻や足、お尻、お腹を触りながら、「象は細長い。」「いや、象は大きくて丸い!」と言い合ったという、その様子をあらわしたものだ。

 実際、中国人の私ですら、今の中国を見る時には、常にこのような感じだ。だからこそ、なるべく一箇所だけではなく、色々な部分を触ろうと心がけてはいるのだが。最近は、こんないくつかの面に興味津津で注目している。

■サブカルチャーがメインカルチャーを圧倒する今の中国

 今年8月、中国のローカル各紙には、共通のこんな見出しが躍った。『大熱門珍珠港爆満!』

 そう、あのハリウッド映画『パール・ハーバー』が爆発的な人気を集めているというニュースだ。この映画は日本でもこの時期に、ロードショー公開されていたが、日本と同時期に中国でハリウッド映画が公開されるなんていうことは、私があの国にいた15年前から考えれば、夢のような話だ。

 ちなみに、映画チケットは中国では100人民元、日本円にして1500円。しかし、中国を一度でも旅行した人ならわかるだろう、あの国の物価は日本とは比べものにならないほど安い。いくら最近インフレが進んだとはいえ、100元あったら、街のレストランでテーブルから溢れんばかりの料理が注文できる。映画の100元はかなりの贅沢だ。

 実際、数年前から、中国でもハリウッド映画を他の国とほぼ同時期に見られるようになっている。おそらく94年の『生死時速』(キアヌ・リーブス主演『スピード』)の頃からだろうか。あの『泰坦尼克号』(『タイタニック』)も日本とほぼ同時に公開され、中国の若者達を夢中にさせた。

 何といっても中国の人口は13億人、一人100元でも大変な額だ。ハリウッドにとっても中国はいいお客さんなのだ。

 このように外国製の映画がどんどん入り込んでくる状況の中、音楽も映画にひけをとらないような状況だ。FMラジオをつければ、流れてくる曲は、そのほとんどがいわゆる洋楽。東京のJ-waveやインターFMとさして変わらないラインナップだ。 

 以前、ラジオ番組をやっていた時の習慣で、今も時々上海のラジオチャートをチェックしたりするのだが、最近は新顔も多く、漢字を見てもどのアーチストかわからないことも多い。この前も「辣妹女子五人組合」と書いてあるのを見て、「???」となってしまった。脳みそをしぼってさんざん悩んだあげく、「ああ、スパイスガールズか!」一件落着してため息をついた。

 映画や音楽に限らず、今の中国には、こういう話はいくらでもある。要するに、社会主義の看板は下ろされず、中国共産党は相変わらず政権を握っているが、しかし、市場経済による変化はもう止められない。中でも一番目につく変化が、このサブカルチャーの分野なのだ。

 このように様々な情報が海外から流入するようになった中国のサブカルチャーは、今、まさに『百家争鳴』状態だ。しかし、サブはあくまでサブであり、(中国語では『副文化』あるいは『亜文化』『次文化』などと呼ぶ)メインの文化はそれほど変わっていないというのが実情だ。

 ここで言うメインの文化というのは、単なる古典や伝統文化のことではない。上部構造の話である。たとえば政治文化のジャンルを見れば、中国中央電視台の毎晩7時のTVニュースは、相変わらず、「わが党、わが人民は‥…」という調子で始まり、内容も20年前と大差ない。

 しかし、このニュースが、今日の中国の全体像をあらわしていると言ったら、それは大きな間違いだ。中国人も誰も賛成しないだろう。中国のシンボルという意味で、天安門の上の毛沢東の肖像と同じように高く掲げられてはいるものの、今日の中国人の生活実態とはすでにかけ離れている。

 要するに、この10年間の変化と不変を新聞に例えれば、変わってないのは一面の記事、変わったのは三面なのだ。メインの文化はまだまだ固いが、今まで全く存在しなかったサブカルチャーは中国全土を席巻し、メインよりも脚光を浴びている。

 これは中国の表と裏と見るべきなのだろうか?いや、これは誰が見ても一目瞭然、裏とはいえないだろう。このような時代を作りつつある中国のサブカルチャー世代とはどんなものなのだろうか?

■中国の新しい顔、“サブカルチャー世代” 

 天安門事件から3年後、?小平の「南巡講話」をきっかけに、中国では市場経済の導入が始まった。そして、それに続く経済の急成長は、中国の一般市民たちの生活を大きく向上させた。最近の上海、広州など沿海都市の生活や住居は、東京、香港、ソウルといったアジアの大都市とほとんど差はないばかりか、むしろ上回っている点も少なくない。

 その中で育ってきた現在20代の若者たちは、政策により、ほとんどが一人っ子。親たちの愛情と経済力を一身に受けて育ってきた。年々倍増する親の収入で与えられるのは新しい洋服、家電製品、ブランド品…。テレビには、欧米のメーカーのCMや日本のトレンディドラマが映し出され、音楽、映画、ファッションなどの海外情報も溢れている。

 そのため、この世代は、「今の中国は世界の他の国と同じように情報が自由に入ってくる」と信じて疑わない。彼らの上のいわゆる「天安門世代」が持っていた先進国に対する憧れや「中国は遅れた国だ」という政治的・経済的コンプレックスはみじんもない。

 また、民主化以後の旧ソ連や東欧諸国が国際的な地位を失い、経済的にも停滞しているのを見ているため、政治改革にもほとんど興味がないのだ。

 このような状況は決していいことではないが、しかし悪いことでもないだろう。これで何か大変なことが起こるといったら嘘になる。どこかの学者のように眉をひそめて、「このままでは我が国は危機的状況に陥ることだろう。」などとまじめに警告したら、おそらく笑われるか無視されるに違いない。

 なぜなら、日本の大学で、日本の若者と毎日つきあっている私は、これと全く同じ光景を見ているからだ。つまり、いくらマスコミが政治や経済の危機的状況を訴えても、新聞もろくに読まない若者達には届かない。

 日本も中国も、彼ら若者が日頃積極的にキャッチしている情報は、レジャー、音楽、スポーツ、ファッションに関するものだけである。この種の情報の判断基準はただ一つ、好きか嫌いか、それだけだ。どうせ流行は半年後には全く別のものになる。深く考える必要はないのだ。

 そして、このようなサブカルチャー情報にしか接触しない人間はどうなるかというと、他のどんな情報に接しても、「好き」「嫌い」、あるいは「知らない」という反応しかできなくなるのだ。これは日本も中国も変わらない。しかし、世の中には好きか嫌いかだけではすまされない情報が沢山ある。

 メインの文化や政治・経済の問題は、その是非を判断するためには、分析が必要だ。しかし、好き嫌いという感情レベルでの判断しか出来ない人は、そこから逃げようとする。このような思考様式に対しては、私は、決して賛成できない。これが、私がこの世代を全面的には支持しない理由だ。

 私は今年44歳だが、私たちの上の世代は、メインの文化しか認めない世代、一方、下の世代はサブしか知らない。しかし、私はメインとサブ、両方の分野に足を踏み入れ、それを楽しみたいと思う。

 でも、最近、気がついた、私はこのサブカルチャーの役割を過小評価していたかもしれない。このサブの文化のおかげで、今、世界の若者達はお互いかなり似てきたのである、アメリカも中国も日本も。しかもそれはごく自然な形で行われた。

 メインの文化でこのような関係を築くのはどれほど難しいことか。多くの政治学者たちや哲学者たちが、かつて崇高な言葉でこの日を描き、難解な概念の方法論を展開したが、ふたを開けてみると、世界各国の若い世代に国境を超えさせ、共通な場所へと導いたのは、結局メインではなく、サブカルチャーだったのだ。

 先日、アメリカではMTV20周年を祝うイベントが大々的に行われた。考えてみれば,MTVはCNNよりはるかに多くの世界の国で放送され、そして若者にはるかに大きい影響を与えた。このチャンネルの視聴者という意味では、上海の若者もニューヨークの若者も全く同じだ。

 そして、彼らこそが、21世紀の中国を担う世代なのだ。

■中国マスメディアの“不帰路” 

 さて、こんどは中国のマスメディアの話を少々しよう。この夏、こんな出来事が中国のマスコミを賑わせた。

 北京体育大学の講師・張健さんという男性が、7月30日、ドーバー海峡水泳横断に挑戦することになった。それを聞いた中国全土のマスコミは、一斉に盛り上がった。当日、中央電視台は中国全土に向け、何と11時間を超える衛星生中継番組を放送。3000tの船とヘリコプターが、海と空から彼を追った。

 そして、彼がめでたく横断に成功、無事にドーバーに上陸すると、出迎えの人々は、涙の雨とともに五星紅旗を振って彼を迎えた。中国国内のメジャーな媒体の記者たちは、これを「人類の壮挙」「中華民族の誇り」などと大見出しで打電し、国内の人々もこれを読み、感動に浸った。

 しかし、その数日後、新華通信社主宰の「新華網」というWebニュースにこんな現地発レポートが掲載されたのだ。書いたのは新華社ロンドン支局の記者・王子江である。

 「張健の横断・上陸成功を見届けた翌日、私は、ホテルのフロントで支払いを済ませ、タクシーを呼ぼうとしていた。すると、そばでチェックアウトしていたイギリス人の若者が、『僕はこれから彼女を乗せて駅まで行くんですが、良かったら乗りませんか?』と声をかけてくれた。彼の名前はアレックス・ラムスデンといった。駅までの道すがら、私は何気なく尋ねた。『ここにはバカンスで来たの?』彼は運転しながらごく軽い感じで答えた。『いえ、ドーバー海峡を泳いできたんです。』私は耳を疑った。張健の関係者は、このドーバー海峡は世界でも指折りの難所としきりに強調していた。この175センチ足らずの小柄なイギリス人がその難所を泳いで渡ったとは到底信じられなかった。『いつ?』『昨日。もう終りましたけど。』」

 「私はショックを隠せなかった。彼の答えの気軽な雰囲気と、昨日、張健を迎えた大勢のマスコミとヘリと大型船、さらに海外同胞、留学生たちの大声援の“壮観な”あのシーンを比べると、つらい気持ちにさえなった。『どのくらいで渡ったの?』『9時間51分です。』私はさらに驚いた。張健は11時間56分かかったのだ。『昨日、中国人が一人渡ったのを知っている?』『ええ、もちろん。彼が出発した後、僕は水に入ったんです。で、僕がフランス側の岸に着いて、こちらにもどってくる時、彼を誘導する大型船がまだいましたよ。ヘリもいたな。』私が彼に、あの船とヘリは、中国のテレビ局が全国生中継の用意したのだと告げると、後部座席にいた彼のGFが驚いて叫んだ。『全国中継ですって?』『水先案内人以外には、どんな人たちがあなたの横断を見守って応援してくれたの?』『彼女だけですよ。』そう言ってアレックスは左の親指でGFを指差した。」

 そして、彼は記事の最後にこう書いた。「ドーバー海峡を泳いで横断した人は、イギリス水泳協会の証書をもらった人はすでに800人以上、その中には、昨日張健を先導して1時間ともに泳いだスミス氏もいた。横断当時、彼はすでに65歳、そして、成功者の最年少はわずか11歳であった。」

 彼は、皆の興奮に水を差すのを恐れながらも、これは書かねばならないと、勇気を奮って書いたという。続いて他のメディアも同じ観点の記事を出した。そして、その中で、張健は、ドーバー海峡を泳いで渡った中華民族第一号でもなかったことが判明した。1988年、10年以上も前、台湾出身の王翰という青年がとっくに横断していたのだ。

 私は、ここで張健さんの努力を否定するつもりは全くない。彼はかつて、2000年8月10日、50時間22分で中国の渤海海峡を横断、123.58kmを泳ぎきった。本当に立派なことだと思う。

 問題は、張健という主語をいきなり「わが民族」という主語にまで広げるその考え方だ。つまり、彼に対する敬意を中華民族に対する敬意にすりかえるのはちょっと違うと思うのだ。

 日本でも、スポーツの国際大会中継を見ていると、アナウンサーの似たような趣旨の絶叫をよく耳にする。中国と同様、一人の選手の奮闘を見て、その感動が一気に「NIPPONJIN」という気持ちに昇華するようだ。こういった気持ちはどこの国でもありがちだが、それが一瞬のことであるのか、それとも常にであるのか、また、それが一部の人たちのことなのかそれとも全体の傾向なのか、さらに、その気持ちが国際関係や政治や歴史観にまでなってしまうかどうかが、その国の国民のレベルの一つの指標だと私は思う。そういう時に、政府やマスコミの冷静さや「大人らしさ」が不可欠だと思うのだ。

 しかし、中国マスメディアから、このレポートのような冷静な記事も発表されるようになったことは実に嬉しい。これは今までにはなかったことだ。

 これまで中国の歴史や文化を世界に知らせる人々はたくさんいた。しかし、今後はこのように世界を中国に知らせる人が増えて欲しいと思う。そうすれば、中国の変化のスピードはさらに速くなることだろう。

■北京五輪招致に見る中国の内面的変化 

 さて、ここでやはり今年夏の中国最大の話題、北京オリンピック開催決定についても触れておこう。

 7月13日金曜日、私はパソコンの画面で、遠いロシアの出来事を見つめていた。この日、モスクワでは2008年オリンピック開催地決定のセレモニーが行われていた。中国のニュースWebがその模様を文字と写真で生中継していたのだ。

 前回、2000年オリンピックの開催地決定の時、私はちょうど上海にいた。今もあの時のことは鮮明に覚えている。サマランチ会長の「シドニー!」という声。それを中継していた中央電視台のスタジオでは生放送にもかかわらず、全員が言葉を失った。長く、重苦しい沈黙。その様子は中国全土に放送され、国全体の失望感はまるで真っ赤に熱せられた鉄に冷水がかけられた、そんな感じだった。

 当時、中国全土で盛り上がっていた招致ムードは大変なものだった。国じゅう至るところに『造勢!』という文字が躍っていた。「皆で開催権獲得のためのムードを盛り上げましょう」という意味だ。

 しかし、このような国をあげてのキャンペーンは、文革経験者の私にとっては、馴染めないものだった。学校、職場、街中に同じスローガンが掲げられる風景。そう、『造勢』の言葉通り、まさにそれは“作られた”ものだった。

 そして、前回の開催地決定の日、プレゼンテーターたちは口々に『12億の人民』『四千年の歴史』という言葉を繰り返し。その時の彼らは国を背負い、国の声を代弁する、単なる国のスピーカーであった。

 そして北京は2票差で負けた。後日、皮肉にもシドニーが3万5千ドルでアフリカの国の2票を買収していたことがわかったが、私は北京が落選したのはそのせいだとは思っていない。あの時、彼らは自分に負けたのだ。

 そして、今回、私は、また例の決まり文句が並ぶのだろうと思いながら、パソコンの画面を眺めていた。ところが、副総理・李嵐清のスピーチに続いて画面に現れたのは意外な言葉だった。

 「私は、シドニー五輪の聖火リレーに参加した時の私自身の感動をぜひ皆さんと分け合いたいと思います。その時、一人の少年の姿が私にだんだん近づいてきました。そして、私が差し出したトーチを握ったその瞬間、彼の目は輝きを放ちました。私は、この瞬間が彼の人生を変えることになることと確信しました。そして、2008年、聖火が、今度は中国の4億人の青少年の瞳を輝かせることになったなら、それはどんなに素晴らしいことでしょう。」

 このシンプルで感動的なスピーチは、有名な卓球プレーヤー?亜萍のものだった。私は小さな驚きを感じながら、これを読んだ。目の前にシドニーの少年の瞳が、そして中国の少年たちの輝く瞳が浮かんできた。今までとは何かが違う。

 ?に続いて壇上にあがった中国オリンピック委員会主任・楼大鵬はこう語った。「53年前、ロンドンの暑い夏。私は12歳の子供だった。しかし、幸運にも、偉大なザトペックたち三人の、あの歴史に残る闘いを目撃した。この記憶が私の人生を作った。それから40年間、私は選手として、コーチとして、そして現在は政府のオリンピック役員として、ずっとスポーツにかかわる人生を送ってきた。その体験は私に一つの事を教えてくれた。オリンピックにおいて最も大切なのは、選手がそこで何を感受するかということ。これより大事なことはないのです。」

 二人の言葉はきわめて個人的な体験を語っていた。一選手である?はともかく、政府の委員である楼がこういう話をするのは、本当に意外だった。『オリンピックの思い出は一瞬であっても、青少年の一生を変えることが出来る』というメッセージ性はあるが、そこには、これまでの中国の招致活動に見え隠れしていた『悠久の歴史を持ち、膨大な人口を持つ中国が五輪を開催する正当性の主張』はかけらもなかった。

 最後に登場したのは、アメリカ留学後、テレビ司会者として活躍する楊瀾だった。「北京オリンピックの聖火はギリシャをスタートすると、エジプト、ローマ、メソポタミア、ペルシャ、インドを経て、そして中国に入ります。世界最高峰のチョモランマを越える時、聖火は史上最高地を経験することでしょう。さらに、チベットに入り、長江、黄河を渡り、万里の長城に登り、そこで聖火はわが国の56の民族の手を経て、聖火台へと点火されるのです。これは、オリンピック史上、最も多くの人たちが聖火を見ることのできるリレーになるはずです。」

 そして彼女はこう結んだ。「700年前、ある人がマルコ・ポーロにこう聞いたそうです。“あなたの中国に関する描写は事実ですか?”彼はこう答えました。“私が書いたのは自分が目にしたことのわずか半分にすぎない。”」

 場内は拍手に包まれた。これらのスピーチの内容と素晴らしさは、私の予想をはるかに越えるものであった。

 そして、スピーチに続いて、演出・張芸謀、音楽・譚盾による北京のプロモーションビデオの上映が始まった。張芸謀は「初恋の来た道」などで国際的な映画祭の常連、譚盾は「グリーン・ディスティニー」で今年のアカデミー賞音楽部門を獲得した、まさに黄金コンビによる作品だ。そして、映像の最後は、先日、紫禁城で行われたの三大テノールコンサートの場面。パバロッティが歌うプッチーニ作曲のあのトゥーランドットの名曲「誰も寝てはならない」(中国語題:『今夜無人入睡』)」がエンディングテーマのように使われていた。

 そして、その後はご存知の通り。その夜、中国の何億もの人々はまさに眠れぬ興奮の一夜を過ごしたのだ。

■これからの中国の姿 

 2001年7月16日の読売新聞は、「北京勝利への戦術」と題して8年前のあの敗北から劇的に変化した北京の招致活動をこう分析していた。「勝利の大きな要因は洗練され、しかもIOCと国際社会に対する攻めどころをおさえたキャンペーンだった。」

 また、北京の新聞が伝えたところによれば、5つの立候補地の中で、北京は唯一全く母国語を使わずに記者会見を行ったという。副総理・李嵐清は流暢なフランス語、そして他の人々は、ジョークを交えた英語でアピールした。

 『母国語ではない言葉』『国ではなく個人の体験を語ったこと』…。私はこの2つには、大きな実は共通点があると思う。世界が中国に合わせるのではなく、中国が世界にあわせようという意識が明確に存在していることである。

 この文章の冒頭にも書いたように、今回の結果に対しては、中国人の中でも考えはさまざまだ。手放しに喜び、誇らしげに「今日の中国の力を世界が認めた」叫ぶ人、あるいは、「この20年間の改革解放のもたらした発展が世界を納得させた」と語る人もいる。

 しかし、私はこう考える。今回、北京が勝利したのは、オリンピックで中国は変わる、より素晴らしく変わる、それを世界に信じさせることができたからであると。それをあの招致活動によって世界にアピールし、世界がそれを確信したからこそ選ばれたのだと思うのだ。

 その変化というのは、もちろん、北京の街の印象を一変させた立派なビルや道路や体育館のことだけではないし、また、最近盛り上がっている市民たちの「英語を学ぼうキャンペーン」(一人で100センテンスを覚えようというものだそうだ)といったことだけでもない。こういうものはきわめて一過性のものである。意味深いのは、この機会に、WTOという、いわば“経済の国連”に加盟し、経済面でのグローバルスタンダード化を持ち込むことが同時にセットされていることだ。

 かつてモスクワオリンピックは、旧ソ連の体制に大きな風穴を開けた。ロシアの友人も「ロシアの改革の真の序幕は、あの時だったと思う。」と私に語った。

 一方、同じアジアの韓国も、五輪開催が決まった時には大統領は全斗煥だったが、ソウル五輪開会式に立ったのは盧泰愚大統領だった。そして、その後、韓国は政治・経済などあらゆる面で大きな変化が訪れた。あの二人の大統領はいずれもスキャンダルで逮捕、光州事件も見直された。

 2008年、北京オリンピック開幕の日、そのセレモニーはさぞかし壮大で美しいものになることだろう。そして、多くの中国人は、その感動の式典の中、誇りと喜びで胸をいっぱいにしているに違いない。

 そして、私は、彼らの誇りと喜びが、「中国は世界一」という錯覚や「中国は世界の超大国」などという自慢ではなく、「中国は世界の素晴らしい一員として迎えられ、大きな役割を果たす日が来た。」そういうものであればいいと思うのだ。

 多くの中国人の心の中には、ちょうど1000年前の唐王朝のように、中国がいつか再び皆の憧れの世界一の大国になるという夢がある。この美しい夢を見たい気持ちはわからなくはない。しかし、ここで思い出さなければならないのは、なぜ唐はあの時、世界の頂点であったのかということだ。

 当時、東西南北のあらゆる国から、山、草原、砂漠を越え、人々は唐の都長安を目指した。長安はインドの仏教文化をはじめ、中央アジアの貿易隊商たちがもたらす周りの民族や国の様々な文化、そういったものが共生し、よその地からやってきた者達にも夢の実現が可能な街であった。このような心の広さが、人々をこの自由の都へ向かわせ、いっそうの繁栄をもたらし、史上空前の大文明を作り上げたのだ。

 現代中国の『不帰路』、その行き先はこの唐の都長安のような心の広いものであってほしい。私は心からそう願う。