津上俊哉 現代中国研究家・コンサルタント

津上一目押し

中国人より中国人らしい日本人
2001/02/25
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「小脳袋没見識」氏

 日本が最初占領から始めた「満州国」について見ると、日本移民(日僑)は実に速やかに中国化した。いわゆる日、満(漢)、蒙、朝、露の「五族共和」は、その実行がどうだったにせよ、少なくとも表向きは立派な政治主張であり、元朝の「人分四等」や清朝の「満漢不通婚」政策に比べればよっぽどましだった。日本が東北地方を制してわずか十数年で降伏したとき、日僑の大多数は中国語を話すことができ、大陸生活に適応しており、服装や飲食面に一部独自の民族色を残すほかは、一般中国人と変わるところがあまりなかった。平民同士の民族矛盾も元・清初年のような激烈さに遠く及ばなかったし、中日間の通婚も普通に行われた。日本の敗戦後、少なからぬ日僑が日本に帰るよりむしろ中国に留まることを選択し、大量の日本遺・孤児が中国家庭に引き取られて育てられたことなど、日本人の適応を説明する材料は数多い。

 歴代侵略者は武力を以て中国を征服し、自身が中国文化に範を取って征服を行った。これが「漢化」である。中国文化の優劣いずれかは別の議論である。中国文化が示してきた強い同化力は世界の注目するところである。「同化」はもとより外来文化の融合を否定しない。ときには大がかりに外来文化を融合し、大がかりに外国民族の血統を受け入れた。一方向の同化力というよりも、ある種巨大な包容力と言うべきかも知れない。この種の力量は中国本土において特に顕著であり、海外でも感ずることができる。

 華洋雑居の香港、澳門は、中国文化と欧州文化が最も競い合い、交流した場所である。中国内地はこの二つの窓口からどれほど多くのものを吸収したことか。海外にくまなく所在するチャイナタウンや唐人街もまた、多くの中国のものを少しずつそれらの異境の地に浸透させていった。

 外来文化に抵抗できるインドのような文化は強大だと言えよう。外来文化を急速に吸収できる日本のような文化は活力に満ちていると言えよう。では中国はどちらに属するのだろうか。

 日本人の中国文化に対する理解と憧れは隠れるものがない。日本の侵略軍は中国で殺人、強姦、略奪と悪事の限りを働いたが、ただ中国文化に対してだけは、心して破壊や毀損を働かなかったばかりか、ある者は保護に尽くした。映画「覇王別姫」には、京劇を愛してやまない日本軍人、青木が出てくるが、この役柄にモデルがいたことを疑う者はいない(一説によると、その原型は長谷川という文化軍人だという)。日本占領軍は梅蘭芳、齊白石、周作人らの有名文化人を尊重し、彼らに役職に就くよう求め、協力を断られても害を加えることはなかった。被占領地区の文学創作は非常に活発で、張愛玲のような優秀作家を産んだ。抗日ゲリラ隊に身を投ずる主人公を描いた小説も上海で正式に出版することができた。秦始皇帝の焚書坑儒、雍正、乾隆帝の大興文字獄、ひいては(我々「自身」の)国共両党政権の暗殺、作家迫害、反右派闘争、文革と比べても、ずっと開明的だった。

 文化への「憧れ」は同化の第一歩だ。日本人はしばしば中国文化に通じていることを誇りにする。数知れない映画、文学作品の中には、自由に中国語を操り、「中国通」を自認する日本軍人が大勢出てくるが、これは決して事実無根という訳ではない。「紅灯記」に出てくる日本憲兵隊隊長の鳩山は元々は医師であり、中国学を専攻した訳では決してないが、中国語と人情世知に精通し、入手した暗号電報から、まずは「設宴交友」が必要だということが解る人間だ。そこから想像できるように、日本は一旦中国を征服すると、こういった侵略者は中国人より中国人らしくなりたがることがあるものなのだ。少なくとも、彼らは大多数の南方人よりも滑らかに北京語を話した。蒋介石や毛沢東、そして方言丸出しのその他多くの国共両党の領袖と鳩山を並べて立たせ、中国語を習いたての西洋人に、どれが中国人でどれが外国人かを発音から聞き分けさせたら、恐らく間違えるはずである。

 日本は古くから中国文化の多大な影響を受けてきた。漢学を「上国之学」と見て、政治国家を論ずる際の根本だと考えてきた。明治維新以後は、西洋の政治、経済体制を導入したが、天皇制を強化した。維新の志士は「尊皇攘夷」、「神州不滅」を叫んだが、それは中国化なのだ。日清戦争前、日本の真面目な文学作品はほとんど漢文で出版された。読者はそれを見て、これは教養のない「女子供」向けではないと判断した。

 我々は長い間、以上の一面を強調してきた。しかし、中国文化、特に近現代の中国文化が日本の影響を深く受けてきたという、もう一面を忘れてきた。しかし、中日両国の文化の交流融合は相互的なものであり、一方通行ではない。積極的なものであり、受け身のものではない。それは中国人が抗日戦争を題材とした映画から「大々的な」、「統々とした」、「ミシミシ」、「スラスラ」だのといった日本のくだらない物謂いをまねたことを言うのではない。そんな簡単な笑い話ではないのだ。中国の言語、文字、政治軍事、改革革命、科学教育・・・ひいては風俗礼儀に至るまで、日本の巨大な影響を受けたものは数知れない。一世紀以上にわたって、世界中で中国に与えた文化的影響において日本を超える国は実はないのだ。

 1915年には早くも「将来の小弁護士」と署名した作者が「盲人瞎馬(危険極まりない)新名詞」という書の中で戊戌変法以後、中国に入り込んで流行した日本語由来の新名詞として59語を挙げている。その中の、支那、「哀啼毎呑書(哀地美敦書)」など少数の言葉は、歴史を題材とした作品に見える以外、現在は使われていない。しかし、大多数は今日に至るもまだ広く使われているばかりか、既に現代中国語の区分不可能な一部分になっているものである。

 もし我々が「日貨排斥」のように日本語由来の単語を使うのを拒否したら、中国語はどうなるか、考えてみよう。

 取締り、取消し、引渡し、様、手続、積極的、消極的、具体的、抽象的、目的、宗旨、権力、義務、当事者、所為、意思表示、強制執行、第三者、場合、また(又)、もし(若し)、打消し、動員令、某々の必要はない、律、大律師、代価、譲渡、親属、継承、債権人、債務人、元素、要素、偶素、常素、損害賠償、各々、法人、重婚罪、経済、条件付き契約、よって(従而)どうだこうだ、衛生、文凭、盲従、同化・・・。以上は中華民国初期の荒っぽい列挙に過ぎず、実際は59語どころではすまない。もし今、もう一度同じ集計をしたら、結果はもっと驚くべきことになるだろう。例えば:

 幹部、代表、圧力、排外、野蛮、公敵、発起、旨趣、なになに族、派出所、警察、憲兵、検察官、写真・・目に入るもの皆全てとは言わないが、である。「経済学」、「哲学」、「社会学」は中国では元々「資生学」、「智学」、「群学」と呼んでいた。

 ちょっと聞くと日本語のようだが、実はこれらは本場の中国語でもある。これらの「日」常用語には、実は中国古代に既にあった名詞を日本人が新しい意味を与えて通用語にしたというものもある。それを中国が手にするのは訳もないことだ。孫中山(孫文)が反清起義を始めたとき、最初は「造反」を自称していたが、陳少白が日本の新聞を持ってきて彼に見せた。そこには「支那革命党孫文」とあった。孫文は手を叩いて言った、「よし、これからは革命と言おう、造反というのはやめだ」。「経済」という言葉もある。元々の意は国家を治めるだが、今日誰が「経済」を「国家を治める」の意で使うだろう。とっくの昔に「政治」の語を使うようになっている。

 小学校で国語を習うときは、教師から勝手に名詞や形容詞を造語してはいけない、中国の言語、文字の純粋さと規範を保てと教わる。新語を造るときも、ほしいまま、いいかげんという訳にはいかない。語彙とは一種の概念工具であり、こんなに多い新語というものが体現するものは決して言語表述上の新しい意味だけという訳ではない。それは必然的に社会構造、思想観念、文化形態といったものに対する巨大なインパクトと革新を伴うものだ。もちろん、新しいものが全て良いという訳ではない。日本を例に取れば;

 日本は「排日」を口実にして、絶えず中国に「圧力」をかけ、「従而(よって)」、「野蛮」な「侵略」を「発起」し、しまいには「世界」の「公敵」となった・・(「 」内は日本語彙)、という風だ(^_^)。

 当時大量の新語が中国に流入し、いっとき人の不安をよび、相当新しい部類の人も落ち着いていられなくなった。思想が開明的な洋務派として有名だった張之洞も、ある時、文書の中で新名詞を使うなと言ったことがある。しかし、彼の幕僚の一人辜鴻銘は、彼に「新しい名詞を使うな」の「名詞」は日本語由来の新語です、と告げた。辜鴻銘は中西結合を貫いた著名な世界的大学者であり、中国を愛し、誇ってやまなかった人物である。しかし、彼も真正の中国文明の精華を継承したのは日本人であり中国人ではないと考えていた。漢・唐代に形成された中国文明は元朝及びその後の遊牧民族の侵入により断ち切られ、蹂躙、台無しにされ、大部分は失われてしまったと。これに対して日本は外敵の進攻に抵抗し、中国の外で中国文化の真髄を保つことに成功した。彼は遂には「日本人こそ真正の中国人だ、唐代の中国人だ」とまで断言したのである。

(人民日報強国論壇 2001年2月25日)