津上俊哉 現代中国研究家・コンサルタント

その他

書評:タテ型アジア観の放棄が日本を幸せにする
2003/04
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深川 由起子
青山学院大学助教授(現東京大学教授)

 「卜シのせいか、本当に怒りっぽくてイヤ」−−。定年後の夫が妻たちに嫌がられる理由の一つは自分の思い通りでないとすぐに苛立つことだという。中国経済の台頭に対する最近の「空洞化」批判や「デフレ輸出論」、あるいは「人民元過小評価説」は自信を失った日本の不機嫌さを露呈している。

 思い通りにいかないことの最大は中国のキャッチアップが予想以上なことだ。これまで産業基盤が弱い東南アジア諸国連合(ASEAN)からライバル企業が出現することはなく、かえって日本の輸出は現地市場の拡大により大きく伸びた。ASEAN拠点の多くは第三国輸出が中心で、対日供給の拡大から国内の雇用に影響が及ぶことは注意深く避けられてきた。しかしながら、低賃金労働の質と量だけでなく、エンジニアや開発要員にも豊富な人材を擁する中国は技術吸収力が高く、競争力を持つ地場企業が次々と育つ。その競争力に目を付けた日本企業の大量進出は地理的な要因もあって対日供給の拡大に結びついた。マスコミは構造転換の進まない国内から「雇用を奪ってゆく」中国の姿を増幅させがちだ。

 新興経済の発展には強い光と影が伴う。中国についてはその規模が大きいだけに極端な楽観から悲観までが入り混じり、巷には洪水のような情報が溢れる。その中で本書が印象的な点は中国がいかに良くも悪くもとんでもないか、に終始しがちな類の本とは異なり、一貫して視点を日本に置き、どう対応するか、に置いていることだ。ここには著者の経歴が投影されている。著者は1980年代はじめに入省した経済産業省官僚だ。80年代を通じ、彼らの仕事は米国をはじめ、世界との聞に頻発していた貿易摩擦の解消であり、「強すぎる」日本経済のあり方を考えることだった。著者の経験からみれば、かつての米国が日本に苛立ちつつ、その強みに素直に学んで立ち直ったように、日本も転換を図るしかない、ということになる。

 ここで中国悲観論に立つ人々から見れば、では日本が中国から学ぶことなど一体、何があるというのか?ということになるだろう。国営企業問題と深刻な財政負担、知的財産権をはじめ定着しない法治と巨大規模の腐敗、環・境の劣化を無視した開発主義、そして世界貿易機関(WTO)加盟で途方にくれる農民数億を無視して自由貿易協定(FTA)を宣言できる政治体制。影のみを見れば、所詮、市場経済と民主主義という共通の枠組みを持ったかつての日米関係と日中関係とは違う、という批判が生まれる。しかしながら、光の理由もまたあるはずだ。著者は政府から企業に至るまで、過去にとらわれず良いと思われるものをすぐに取り入れる前向きさ、柔軟さに光を見る。実際、これこそ80年代の強い日本経済・特に製造業に内包されていたものではなかったのか。

 ただ、高齢化が進む日本社会か今更、80年代の若さを取り戻すことは容易ではない。米国は移民によって常に若い社会を維持できる特殊条件を備えている。そこで著者が提唱するのはモノだけでなく、ヒトやカネがもっと自由に往来し、中国経済のダイナミズムが日本にもっとダイレクトに波及する戦略のあり方だ。目本人はいまだ、日本が雁の群れのトップにあるといった、タテ型の硬直的思考を払拭できない。

 しかもこのタテ型のどの辺りに位置するかを、国単位で考えがちだ。しかし、中国のような経済を国として平均値で捉えることにはあまり意味はない。まさに「中国台頭」はタテ型思考の放棄を迫るものなのだ。そしてタテ型を放棄すれば、著者の主張するように、中国は、高齢化する日本に豊富な人材を供給し、日本の観光・温泉地を立て直し、高収益の投資機会提供を通じて日本企業や家計の立て直しに貢献する絶好のチャンスを提供してくれる存在と映る。プラザ合意から今日まで、日本人はその生真面且さをもって東アジアの発展に大きく貢献してきた。その発展は今や何より貴重な日本の資産だ。

 多少、話題がアドホックに前後している点はあるが、苛立つよりも資産から何を刈り取れるか、を戦略的に思考することを提言する本書のメッセージは正論である。

(外交フォーラム 書評フォーラム欄 2003年4月号 )