津上俊哉 現代中国研究家・コンサルタント

日本経済・政治

東アジアのFTAに後れを取るな
-日本再生に必要な3つの条件-
2003/07/08
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■FTAはもはや連鎖反応状態

 一過性でしぼむのか、それとも後世に残る動きになるのか──。東アジアに自由貿易協定(FTA)ブームが起きている。きっかけを作ったのは日本だ。1999年に韓国と共同研究を始め、これを見ていち早く反応したシンガポールとの間でFTA交渉を迅速に進めたこと(昨年1月締結)がブームに火を付けた。
 「シンガポールと日本のFTAを批判していたマレーシアも今や日本と話し合いを進めており、フィリピンもすぐに続くだろう。中国は日・シンガポールの動きを見て東南アジア諸国連合(ASEAN)・中国FTAを提案してきた。中国とASEANの取り組みが進むのを見て、今度は日本がASEANに包括的な経済連携(CEP)を提案した。また、韓国は興味を示していなかったが、今はシンガポールとの2国間FTAを話し合っている」──。
 去る3月訪日したシンガポールのゴー・チョクトン首相が経済産業研究所で行った記念講演の一節だ(経済産業研究所のホームページhttp://www.rieti.go.jp/jp/events/03032801/report.htmlで公開中)。ゴー首相は講演の中で東アジア自由貿易協定(EAFTA)の夢を語った。まさにこういう連鎖反応を東アジアに起こしたかったのだ。端正でややいかめしいゴー首相が右のくだりでは破顔一笑していた。
 今や、日本はASEAN10カ国との経済連携だけでなく、マレーシア、フィリピン、タイと2国間FTAを協議し、インドネシアもメガワティ大統領が対日FTA協議への希望を表明した。日韓FTAも俎上に載っている。東アジアではないが日本・メキシコFTAは交渉が進展して、さらに現実味を帯びている。
 対する中国は東アジアでの「仲間外れ」を憂え、ASEAN10カ国とのFTAに邁進した。ASEANの得意な農産物についての大胆な譲歩(「アーリーハーベスト」。特定品目の自由化を前倒しで実施すること)を武器に昨年11月に基本協定調印にこぎつけ、本年内には関税引き下げのスケジュール交渉を終結する構えだ。

■中国・ASEANが先行したら

 いつも大国の間でバランス戦略を取ってきたASEANが、日本をおいて中国とのFTA交渉に踏み切った。放置すれば東アジアでの日本の存在感、主導権は大いに低下する──。今度は日本が危機感を強め、慌てて中国の後を追ってASEANとの協議に入った。
 ASEANは中国とのFTA交渉に踏み切ることで、いつも農業を理由に挙げて動こうとしなかった日本にハッパを掛けたのだ。バランス戦略の「動態的」な派生型である。
 中国・ASEANの関税相互撤廃の流れに日本が取り残されれば何が起きるのか。
 日本企業は当然、中国市場でのASEAN企業との競争でも、ASEAN市場での中国企業との競争でも関税分のハンディキャップを負うが、それだけなら大したことはない。問題はむしろ、東アジアと日本の分業体制、とりわけ日本企業のグローバル生産体制に及ぼす影響だ。
 日本企業は中国にもASEANにも生産拠点を持って最終組み立てのような労働集約工程を行い、日本国内では付加価値の高い部品や原材料を生産している。しかし、中国・ASEANの関税撤廃の動きに日本が取り残されれば、電子・電気産業でも自動車産業でも、日系企業がASEAN(中国)の組立工場で組み付ける部品・原材料は日本の工場ではなく中国(ASEAN)の工場から持ち込む方が安くなる。事は中国・ASEANの内需市場にとどまらず、日本の世界向け生産体制全体にかかわり、端的に言えば日本国内の空洞化が一層進展することになる。
 日本が中国に後れを取らずにASEANとのFTAを進めるべきことは政治的にも経済的にも明らかである。

■いずれは中国との締結が不可欠に

 中国とのFTAについては、「世界貿易機関(WTO)に加盟したばかりであるので、当面は加盟時の約束を十分履行できるかどうかを見守る」というのが政府方針だ。その限りでは正しいが、問題は「当面見守っても、その後はどうするのか」という頭の体操まで先送りしていることだ。
 理論的には日中がFTAで貿易障壁を相互撤廃すれば、産業の保護障壁が既に低い日本の方がより得をすることは明らかだ。しかし、ASEANとのFTAを支持する人も中国とのFTAにはたいてい腰を引く。中国経済脅威論の流行が示すように、日本人は中国との経済一体化からメリットを感じることができずにいるからだ。
 また、両国とも競争力のない重要産業を抱える。日本では農業であり、中国では例えば自動車である。相手が大きいだけに、これらの産業の構造改革の痛みや政治的コストも特大だ。おまけに、互いに抜き難い相手への政治的不信感は、FTAの困難を倍加する。日中がFTAを締結する日は簡単には来そうもない。
 しかし、考えておかなければならない問題が3つある。
 第一は、中国・ASEAN・FTAによる空洞化加速は、日中FTAも併せて結ばなければ解消しないことだ。中国の工場で組み付ける部品・原材料の生産を中国・ASEAN・FTAで輸入関税がかからなくなるASEANの工場に移す動きは、日本・ASEAN・FTAだけ結んでも止められない。東アジアはそういう時代に入ったのだから、愚痴を言っても始まらない。日本もFTAを進めるしか衰退を避ける道はないのである。

■メリットをメリットにできない日本

 第二は、日中両国がFTAを結ぶかどうか不透明なまま、東アジアFTA競争をする現状は、排他的な主導権争いに化けたり、そういう不安を周辺に与える恐れがあることだ。
 近時急速に対中経済依存を強めつつある韓国では、日韓FTAを巡って現実に問題が起きている。日本との競争を警戒する一部産業界だけでなく、中国への気兼ねから対日FTAだけ先行させることへの慎重論が強まっているのだ。
 中国自身も日本とのFTAを巡って揺れ動いている。昨年11月カンボジアで開催された日中韓首脳会合で朱鎔基首相(当時)は日中韓FTAの共同研究を提唱した。「ASEAN+3」の漠たるイメージから一歩踏み出し、日本とのFTAも検討する用意があることを示唆した重要発言だ。
 しかし、これに小泉純一郎首相が「中長期的観点から検討が必要であり、研究の進展を見守りたい」と距離を置く姿勢を示したことから、中国では提言をしたことがたたかれたという。
 中国は近時の経済的成功が顕著なだけに、周囲の中国経済脅威論に神経質になっている。日本のFTA政策を中国排除の動きと疑い、「対抗」を意識する人もいる。現に日本国内にそういう意見があるから、あながち誤解とも言い切れない。
 日中両国が東アジアで排他的な競争をすれば、他のアジア諸国は板挟みで苦しむことになる。それがせっかく盛り上がってきた東アジア経済統合全体の慣性力を低下させる危険がある。数年内の日中FTA実現は期待薄だとしても、周囲の憂いを消すために、両国政府は「長期的には日中FTAも実現する」という共通意思を表明すべきだと思う。
 逆に日中FTAを結ぶ覚悟ができれば、日本は香港、台湾も統合に包含する「ASEAN+3+2」を提言できる。微妙な両岸関係のせいで東アジア経済統合から台湾が取り残されているのは地域全体にとって大きな損失だ。
 第三、最大の問題はしかし、FTAなど結ばなくても、中国との事実上の経済統合がいや応なしに進んでいることにある。日中経済の統合が日本にメリットをもたらさないことはあり得ない。そうではなく、日本が(1)メリットがあっても気がつかない(2)メリットはあるが取りに行っていない(3)メリットを取りたいが日本側の原因により取りに行けない──という3つの「ない」のせいで、メリット・デメリットの帳尻が大赤字になっているのだ。事実上の統合が止められないのなら、日本がもっとメリットをつかむ努力をしない限り、帳尻の赤字は消せない。

■衰退が嫌なら日本が変われ

 FTAにせよ、事実上の統合にせよ、経済一体化からメリットをつかむ工夫をすることは各国の責任だ。そのために必要な改革を3つ挙げたい。
 第一は言うまでもなく農業・農政改革だ。FTA締結のためには2国間限りとはいえ、農産物を含めた関税引き下げが必要だ。農水省は以前ほどかたくなでなくなったが、例えば農産物輸出国の一方の雄、タイとのFTAは弥縫策で何とかなる範囲を超えている。
 条件の良い農地では自由競争による競争力強化を促し、ハンディを負う中山間地は農業の多元的機能に着眼した直接所得保障を強化するなど、自由化に堪えていける農業・農政に早くかじを切らないと、国家百年の大計を誤る。
 第二は、高コスト構造是正の努力だ。日本企業の生き残りだけでなく、外資企業誘致のためにも絶対に必要だ。最近「全国の高速料金をタダにしたら?」という提案が生まれているが(山崎養世「日本列島快走論」)、実現したら経済活性化だけでなく日本人の生活まで変える力があることが分かるだろう。第三は、日本人の「アジア、アジア人」観、意識の改革だ。1世紀以上の間、他のアジアを見下してきた習慣が抜けないせいで、今の日本がメリット吸収でどれだけ損をしているか分からない。例を挙げよう。
 第一は、アジアからの外国直接投資を吸収することだ。日本人の多くはまだ「外資=欧米企業のこと」だと思っているが、台湾企業は既に新日鉄の半導体事業、日本IBMや富士通のTFT(薄膜トランジスタ)液晶事業を買収または経営参加しており、近く住友金属和歌山製鉄所にも資本参加する予定だ。
 企業買収による対日投資の流れは今後中国企業にも広がっていく。既に民事再生に追い込まれた東京の中小印刷機メーカーを上海の国有企業が買収、再生させた例が生まれている。
 大企業の「選択と集中」で処分が決まった事業部門、資金繰りで行き詰まった中小企業など前途の暗い日本企業も、アジア企業から見れば、技術、販路等の価値を持つものがたくさんある。日本人はアジア人の社長の下で働くことに抵抗を感ずるかもしれないが、今や成長してきたアジアの経営資源と活力を日本企業再生のために借りるべき時代なのだ。
 第二の例は外国人観光客だ。日本の02年の旅行収支(国際収支の一部)は3兆円に迫る赤字だった。政府は最近、外国人観光客を年間1000万人に倍増することを提言したが、狙う客層はアジアの富裕客だ。台湾観光客の北海道好き、温泉旅館好きは有名だが、中国も経済成長のおかげで、ゴルフ人口、スキー人口そして海外旅行好きが爆発的に増加し始めた。こういう富裕客の呼び込みは今後の地方振興に欠かせないと思うが、そのためには「入国させてやる」式の入管(ビザ)行政を不法入国取り締まり強化と富裕客大歓迎の両面作戦に転換させることが不可欠だ。
 以上のことはこれまでの日本にとって死角だった。日本経済再生のためには、これまで何をしてこなかったか、見落としてきたかを考えなければならない。まずはメリット吸収に必要な中国(アジア)観の修正から始めてはどうか。

(『世界週報』2003年7月8日号)